· 

この世はフィクションである。

私は不安を解消するため、楽をするためにどう生きるべきなのか、マニュアル的な生き方があるのではないかと考えて、色々と読書等をしてきました。

その中で、今は「固定した生き方なんてない、その時その時に応じた生き方でいい。何故なら、人類の歴史はフィクションで彩られており、例えば善や悪の概念も時代の変化や物の見方によって様々に変わるものだから。」という考えに至りました。

その考えに至った状況を徒然なるままに書かせていただきます。

物の本によると、現在私たちの種族であるホモサピエンスははるか昔に遡ると、ネアンデルタール人やアウストラロピテクス等とともに生存競争を行ってきた歴史があるそうです。

しかも、脳の容量はネアンデルタール人の方が大きく、筋力も他の人種の方がホモサピエンスより強かったそうです。

通常考えれば私たちホモサピエンスは圧倒的に不利な状況で、他の人種に滅ぼされるのが明らかな状況です。

それでは何故私たち種族がその生存競争を生き延びれたかというと、「認知革命」があったそうです。

簡単に言えば、認知革命というのは、フィクションを使えるようになったという事です。(嘘や観念)

例えば、「俺たちは山の精霊に守られている。」等の目に見えない霊妙なものを信じることにより、連帯感が芽生え、信じる力によりいつも以上に力が発揮されること。

他の人種では現在の家族程度の少ない枠組みの中で生活していたものが、繋がりを信じることにより、連帯意識が芽生え、大きな集団とより強固なチームになり、他の人種を圧倒できるようになったそうです。

認知革命が何故ホモサピエンスにのみ備わっていたかは解明されていないそうですが、この認知革命はホモサピエンスを人類最強にしただけではなく、他の事にも応用してきました。

例えばお金です。お金はその物自体に価値を見出すのではなく、価値を信じることにより、経済的流通が成り立っています。

現在お金は硬貨や紙幣になっていますが、それ自体はただの紙切れであり、金属です。1万円札紙幣であれば、その紙に価値があるのではなく、1万円分の価値があると皆が共通の認識をして信用しているという前提の基に「1万円」という価値を見出しています。

ですから、その時代や状況により1万円の価値は変動していきます。

最初にお金が流通しだした頃は、現在のように紙幣や硬貨ではなかったため、大変だったでしょうし、いきなり「この〇〇には〇〇分の価値があるから交換してくれ。」と頼まれても、容易には信用できなかったと思います。

また、フィクションは国の概念にもあります。それは国境や人種等です。

そもそも、国境とは何でしょう。何か国境に線が引かれているのでしょうか。人類がその便宜上でつけたものに過ぎません。歴史上、国境は戦争や外交などにより変動してきました。人種について言えば、今私は日本人ですが、国籍を変えればアメリカ人等にもなれます。これらもフィクションを信じていることになります。

しかし、このフィクションを信じることにより、人類は絶大な力を得てきました。

国の成り立ちや、古事記も1個のストーリーというフィクションを信じることで国としての団結が生まれています。

身近な例でいえば、最近流行語にもなっている「ワンチーム」です。ラグビー日本代表の中には多くの外国人の方が在籍していますが、「日本」というチームを信じる結束により、大活躍を見せてくれました。もちろん実力も多分にあったでしょうが、これも、フィクションの大きな力の現れだと思います。

そして、宗教で言えば、精霊を信じてきた時代から、八百万の神の概念が生まれてきました。

日本でも様々な神々があるように、戦の神や、恋愛の神、救済の神等、人それぞれの願望に合わせた神が作られていったそうです。

その後、一神教が生まれました。

それまでも、神々の大本である大日如来や、アートマンという概念があったそうですが、それぞれの願望に合わせた神々ではなく、それさえ信じれば良いのではないかという事で一神教が生まれたそうです。

現在は、八百万の神を信じる宗教より、一神教の方が主流になっています。

一神教の弊害は、自分たちが信じる神が唯一正しいということで、他の神々を信仰する宗教を排除しようと、争いが起こります。その証拠に宗教戦争が多く行われてきた歴史があります。

現在は、科学が台頭した時代となり、事実を信じることに重きが置かれています。人々は宗教を信じる必要がなくなり、ニーチェが言うように「神は死んだ。」につながるのではないでしょうか。

宗教の力が弱くなった一方、新たな信仰が生まれていると思います。それは「資本主義」です。確かに資本主義により、人々の生活は楽になり、物質的に繁栄してきました。しかし、それが本当の幸せなのでしょうか。お金はただの紙切れに過ぎず、人生を生きるうえでの手段に過ぎません。

人々はそれに気づきつつあり、莫大な富を気づいたアップル社のジョブズ等は禅に傾倒していったそうです。

 

次に新選組の話です。新選組は武士道とは何かという事を信念に、当初は朝廷や幕府に仕えて、正義を旗印に活躍してきました。しかし、時は流れ、明治維新が起こります。そのため、正義を重んじ剣の道を貫いてきた新選組は明治政府に討伐され、賊軍としての汚名になります。新選組が信じてきた武士とは、正義とは何だったのでしょうか。日本では「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉に象徴されるように、勇敢で勇ましく正面からの敵を倒すことが一種の美徳とされています。しかし、古来中国の兵学である「孫子の兵法」には「兵(戦争)とは詭道(嘘、誤魔化し)である」と書かれています。国が違えば観念が違ういい例だと思います。

 

次に儒教と道教。儒教は孔子が説いたもので、簡単に言うと成功するにはどうすればいいのか、徳とは等を教えています。その一方道教は、老子が説いたもので、そんなに成功してどうするという事を説いており、孔子の教えとは正反対の教えになります。

 

徒然なるままに書き連ねましたが、フィクションはその国の状況や人の状況により変わるものだと言えます。

また、人類はフィクションを信じており、その裏で信仰の力はとてつもなく強いと思い知らされます。

そして、私たちは観念を信じ込まされているという事が言えます。

 

不安を解消するために決まった教えを信じ、その通りに生きようとしていたのですが、これらの事実を知ることにより、私は、親鸞のいうように「何が善で何が悪か分からない。」状況に陥りました。

 

結局のところ、「答えなんてないというのが答え。」「固定した生き方なんてない、その時その時に応じた生き方でいい。何故なら、人類の歴史はフィクションで彩られており、例えば善や悪の概念も時代の変化や物の見方によって様々に変わるものだから。」認知をアップデートして臨機応変に生きていけばいいのではないか。」という結論に至りました。

 

人それぞれ、性格も違いますし、環境も違います。だから、固定した答えなんてなく、その人に合った教えを信じて生きていけばいいのだと思います。

そのため、自分が信じた教えを人に押し付ける必要もありません。

八百万の神のように神にも様々な神がいるように、いろんな考えがあって人は生きていけばいいのだと思います。(犯罪でなければ)

その道を信じることが大きな力になってきます。

 

そして、私は森田療法を信じて生きていこうと思ったのです。